フルベッキ群像写真の44名の志士たち
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フルベッキ群像写真

 この写真はフルベッキ親子と、佐賀藩が長崎にもうけた藩校・致遠館の生徒を写真家・上野彦馬が撮ったものとされる。 しかし、歴史考証的には幾つかの疑問や謎がある写真である。
 龍馬没後の明治元年(1868年)12月に致遠館に留学した岩倉具定・具経が写っていることや、撮影が行われた彦馬のスタジオの様子から、慶応年間の撮影はあり得ないとされている。彦馬の一族である上野一郎は明治2年(1869年)の撮影であると推定しているが、大隈重信の長崎滞在の時期から見て明治元年の撮影であったとも見られている。
 その証拠となる写真も発見されている。明治元年10月8日にフルベッキと佐賀藩中老・伊東次兵衛(祐元)が致遠館教官の佐賀藩士5人と一緒に撮った写真のガラス原板が見つかり、それを裏付ける伊東次兵衛の日記の存在も知られている。ガラス原板写真に写る致遠館教官5人の容貌と服装は「フルベッキ写真」中に写る人物とほとんど変わらない。
 但し「敵味方に分かれた人々が一緒に写っているのがおかしい?」として合成写真ではないかという見方も出ている。また、明治元年にしても2年にしても、すでにこの世にいないはずの坂本竜馬(1867年没)、高杉晋作(1867年没)、中岡新太郎(1867年没)らが写っているのもあり得ない話しである。やはり、合成写真なのか?

NO. 名前 活動の概略
1 長州藩 大村益次郎
(1824〜1869)
幕末・明治維新期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。維新の十傑の一人に数えられる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者。1869年(明治2)2月に函館・五稜郭を制圧し、戊辰戦争を終結する。同年9月4日夕刻、会食中に8人の刺客に襲われ重症を負う。その時の傷から敗血症になり11月5日夜死去。享年46。
2 長州藩 桂小五郎
(木戸孝允)
(1833〜1877)
幕末・明治維新期の長州藩士、政治家。吉田松陰の弟子で尊王攘夷派の中心人物。薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」「維新の十傑」として並び称せられる。
21歳で免許皆伝を得た練兵館塾頭(神道無念流)の剣豪。特に志士時代には、新選組などの幕府側から常時命を狙われていたにもかかわらず果敢に京都で活動し続けた。
維新後、木戸孝允は総裁局顧問専任として迎えられ、当初から「政体書」による「官吏公選」などの諸施策を建言し続けていた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭による参議内閣制を整えた。
3 佐賀藩 江副廉蔵
(1848〜1920)
幕末・明治維新期の佐賀藩士、実業家。
幕末に長崎でフルベッキに英語を学んだ後、1876年(明治9)アメリカ建国百周年を記念するフィラデルフィア博覧会に、有田の香蘭社の通訳として参加し、一旦帰国した後、1878年(明治11)に再度渡米し、三井物産ニューヨーク支店主任として活躍する。その後、帰国し、アメリカ煙草の直輸入で莫大な財産を築いた。
廉蔵の姉美登は大隈重信の最初の妻でした。美登は重信と離縁したのですが、廉蔵と重信の交流は終生続きました。
4 公卿 岩倉具経
(1853〜1890)
父親が岩倉具視。兄が岩倉具定。岩倉具視の3男。
1868年(明治元)戊辰戦争に際し,16歳で東山道鎮撫副総督(総督は兄・具定)を命ぜられて江戸へ進撃。江戸開城後奥羽征討白川口副総督(総督は兄・具定)に転じて奥羽平定に出発するが、まもなくこれを兄と共に辞した。1870年(明治3)兄・具定と共に米国へ留学。1878年(明治11)に帰国。
以後、太政官、大蔵省、,外務省に勤務。男爵。
5 公卿 岩倉具慶
(1807〜1873)
江戸時代後期の公卿、明治時代の政府高官。明治維新の功臣岩倉具視の義父。後に、岩倉具視を養子とする。
1858年(安政5)の「安政の大獄」の「廷臣八十八卿列参事件」で養子の具視や養孫の具綱とともに連座した。1868年(明治元)に参議に任じられ、新政府でも右兵衛督行政官補相職や大総督府副総裁兼議定職などを歴任した。
6 長州藩 広沢真臣
(1833〜1871)
幕末・明治維新期の長州藩士、政治家。維新の十傑のひとりである。
尊皇攘夷派の志士。1866年(慶応2)井上馨らとともに長州藩を代表し、安芸国厳島で幕府方の勝海舟と会見し休戦協定を結ぶ。
維新後、参与、民部官副知事、民部大輔、参議と昇進し、木戸孝允らとともに藩の版籍奉還を推進したが、1871年(明治4)正月9日、東京麹町(こうじまち)の私邸で暗殺された。
7 不 明 大室寅之祐
(東京明治天皇)
(1852〜1912)
【あくまでも俗説です】 写真の人物は、大室寅之祐であり、明治天皇ではない。
戸籍上は、1852年(嘉永5)12月8日、田布施町麻郷地家で生れたらしい。
大室寅助⇒地家寅吉⇒大室寅吉⇒大室虎介⇒大室寅之祐と何度も名前を変へている。1863 年(文久3)寅吉は奇兵隊に参加(この頃に伊藤俊輔(後に伊藤博文となる)が大室家に出入りしていた)、寅吉かぞえ16歳の時、萩へ行き高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。力士隊に所属し見事に勝利する。その後、伊藤俊輔が寅吉を麻郷から連れ出し、萩の杉家(松蔭の実家)へ寅吉を移し松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすことにした。この時期に田布施町麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになったという。
また、一説によると1867年(慶応3)10月29日新撰組が長州の不良力士達を殺害する事件があり、沖田総司が殺害した力士の中に大室虎助(16)の名前があったともいう。一体どうなっているのか?
長州倒幕派の天皇入れ替えの画策であろう。魑魅魍魎、百鬼夜行の世界である。 1868年(慶応4)1月10日の明け方、京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は御所を脱出。維新後、京都明治天皇は比叡山方面の某寺で僧として生き延びたという。同日入れかわりに大室寅之祐が軍隊を引き連れ京都御所に入った。1868年(慶応4)1月10日から1月15日までの間、人事の一新が京都御所で行われた。 この一新が「明治維新」の語源となる。1868年(慶応4)1月15日、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位した。
【ここからは歴史上の事実です】
日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみや)。お印は永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれた。その盛名により戦前・戦中には明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも称された。
1912年(明治45)7月、持病の糖尿病が悪化し尿毒症を併発、宝算61歳(満59歳)で崩御。
8 佐賀藩 副島種臣
(1828〜1905)
幕末・明治維新期の政治家、外交家。
1864年(元治1)長崎で英語を学んだ。1868年(慶応4)3月新政府の参与・制度事務局判事となり、政体書の起草に従事。1869年(明治2)参議、その後、枢密院顧問官、枢密院議長,松方内閣内務大臣などを歴任する。伯爵。
9 土佐藩 岡本健三郎
(1842〜1885)
幕末・明治維新期の土佐藩士、政治家・実業家。実名は養方。
幕末には、坂本龍馬らと交流を持って国事に奔走。
維新後は大阪府に勤め、土木頭、治部司、太政官権判事、大蔵大亟を歴任。1872年(明治5)博覧会用務でオーストリアへ派遣された。翌年に「明治六年政変」で板垣退助らとともに下野し、板垣らとともに民選議院設立建白書を作成した。1878年(明治11)「立志社の獄」で投獄された。出獄後は自由党に加入し、実業家として活動を始め、1885年(明治18)日本郵船理事となっている。
10 土佐藩 坂本龍馬
(1835〜1867)
幕末の土佐藩士、維新を見られなかった幕末の代表的な志士。
1853年(嘉永6)以降、何度も江戸に出て剣技を磨き北辰一刀流の免許皆伝となる。1862(文久2)3月24日に脱藩し江戸に出て、勝海舟に入門。航海術を学び、1863年(文久3)勝海舟の海軍塾の塾頭になり、1865年(慶応元)亀山社中を立ち上げ通商航海業に乗り出した。1867年(慶応3)には海援隊を作り新国家構想を「船中八策」として取りまとめた。
その後、倒幕のために薩長同盟を仕掛け、実現する。自由奔放な人物であったが、1867年(慶応3)11月15日夜、京都近江屋で中岡慎太郎とともに幕府見廻組に襲われて暗殺される。
11 福井藩 日下部太郎
(1845〜1870)
幕末・明治維新期の越前福井藩士。
1866年(慶応2)20歳の時に長崎へ遊学し英語習得に励む。22歳の時に海外旅行免許状(パスポート)を携え渡米。福井藩第1号の海外留学生となる。数学者としても天才的で、アメリカ・アカデミー賞の初代受賞者の一人。
12 肥後藩 横井佐平太
(1845〜????)
幕末・明治維新期の熊本藩士。横井小楠の甥。弟太平より5歳上。1866年(慶応2)太平と共に長崎から米国に密航。勝海舟の計らいで日本初の官費留学生となる。
13 肥後藩 横井太平
(1850〜1871)
幕末・明治維新期の熊本藩士。横井小楠の甥。兄佐平太と共に米国に密航。日本初の官費留学生となる。無理な生活で病を得て帰国。後に熊本洋学校設立に努力した。
14 土佐藩 中岡慎太郎
(1838〜1867)
幕末の土佐藩士、維新を見られなかった討幕派の志士。
1863年8月、土佐藩の弾圧が激化したために脱藩。以後、長州藩をバックに活動。坂本竜馬と共に薩長の和解工作「薩長同盟」に尽力し、土佐藩より脱藩を赦される。 竜馬の「海援隊」とは別に「陸援隊」の隊長となる。
「大政奉還」後の1867(慶応3)年11月15日夜、京都近江屋に龍馬を訪れて会談中、幕府見廻組に襲われてともに斬られ、17日絶命。
15 佐賀藩 大隈重信
(1838〜1922)
幕末・明治維新期の佐賀藩士、政治家、教育者。
幕末に長崎でフルベッキに英語を学んだ。1867年(慶応3)3月、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして副島種臣とともに脱藩上洛したが捕らえられて佐賀に送還された。新政府では、1889年、外人裁判官任用問題で玄洋社社員に爆弾を投げつけられて負傷、右脚を切断。第8代、第17代内閣総理大臣。東京専門学校(現在の早稲田大学)の創立者。侯爵。
16 公卿 岩倉具綱
(1841〜1923)
公卿富小路政直の子で、岩倉具視の養子。
1865年(慶応元)孝明天皇の近習。1871年(明治4)明治政府の参与。ついで宮内省に入り掌典長を長く務めた。1915年(大正4)宮中顧問官。1923年(大正12)10月16日死去。享年83。
17 米国
(オランダ)
ウィリアム
・フルベッキ
(1861〜????)
フルベッキ博士の7男4女の子供たちの長男。その後、生れたもう一人の息子グスタヴ・フルベッキ(1867〜1937)はアメリカに渡り、「ニューヨーク・ヘラルド」紙などに寄稿した漫画家となった。
18 米国
(オランダ)
フルベッキ博士
(グイド・ヘルマン・フリドリン・フェルベック)
(1830〜1898)
オランダ出身で、アメリカ合衆国に移民し、日本に宣教師として派遣された法学者、神学者、宣教師。長崎に設立した英学塾「致遠館」の校長となり、 副島種臣、大隈重信、中野健明、中島永元、相良知安などを指導する。
1898年(明治31)3月10日昼頃、フルベッキは赤坂葵町の自宅で心臓麻痺のために急死。享年68。
19 公卿 岩倉具定
(1852〜1910)
幕末・明治維新期の山城国(現在の京都市)出身の公家。第4代宮内大臣。父親が岩倉具視。義父が岩倉具綱。岩倉具経は弟。
1868年(明治2)〜1869年(明治3)の戊辰戦争に従軍し、各地を転戦。
1870年(明治3)アメリカに留学し、帰国後は政府に出仕。1882年(明治15)伊藤博文の憲法調査に随行して欧州に渡る。1884年(明治17)に岩倉家の家督を継ぎ、帝室制度取調委員、貴族院議員、学習院院長を歴任。1900年(明治33)に枢密顧問官、1909年(明治42)に宮内大臣となる。
1910年(明治43)4月1日死去。享年58。公爵。
20 長州藩 高杉晋作
(1839〜1867)
末期の長州藩士。維新を見られなかった討幕派の中心人物。奇兵隊の創設者。名は春風、字は暢夫、号は東行。
1857年(安政4)19歳のとき松下村塾に入り、吉田松陰の教育を受ける。1866年(慶応2)薩摩藩と「薩長同盟」を結び、反幕府の態勢を固める。
1866年(慶応2)第二次長州征伐では小倉口方面の指揮官および全軍の総指揮官となり、勝利するが、1867年(慶応3)4月14日肺結核のため下関で死去。享年29。
21 肥後藩 横井小楠
(1809〜1869)
幕末・明治維新期の肥後熊本藩士。思想家、政治家。名は時存、号は小楠。維新の十傑のひとりである。
藩の改革や幕政改革などを説き、1862年(文久2)「国是7カ条」をまとめる。この中に「参勤交代制度の廃止」も含まれていた。
1869(明治2)に参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺された。享年61。
22 幕臣 勝海舟
(1823〜1899)
幕末・明治維新期の開明的な幕臣。1823年(文政6)、貧乏旗本の家に生まれる。通称は麟太郎、海舟と号し、安房守と名乗った。剣は直心影流。
1860年、咸臨丸で太平洋を横断し渡米する。ジョン万次郎や福沢諭吉も同乗していた。 神戸海軍操練所で、坂本龍馬に海軍術を教授する。 官軍側の西郷隆盛との交渉で、江戸城の無血開城を果たす。 明治新政府より伯爵の位を授けられた。
【補足】
なお、写真の実際の人物は、勝海舟ではなく、佐賀藩出身の蘭方医で、明治初期の医学行政担当者であった相良知安(1836〜1906)といわれている。
23 佐賀藩 中野健明
(1844〜1898)
幕末・明治維新期の佐賀藩士、明治の外交官・大蔵官僚。幼名は剛太郎。維新後、外務省や司法省の官僚として活躍し、 後に、神奈川県知事になる。
24 佐賀藩 中島信行
(1846〜1899)
幕末・明治維新期の土佐藩士、政治家。通称は作太郎。
土佐藩士族の出身。幕末、海援隊に入って活躍した。岩倉使節団の一員として渡米する。男爵。
25 土佐藩 後藤象二郎
(1838〜1897)
幕末・明治維新期の土佐藩士、政治家。通称は良輔。暘谷と号した。
義叔父吉田東洋に訓育され、板垣退助とは竹馬の友。明治6年(1873)板垣退助らと愛国公党を組織する。伯爵。
26 佐賀藩 江藤新平
(1834〜1874)
幕末・明治維新期の肥前佐賀藩士、政治家。南白と号した。維新の十傑のひとりである。
学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備政策を推進。司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
1874年(明治7)士族の反乱「佐賀の乱」で挙兵し、敗れて同年4月13日嘉瀬刑場において処刑された。享年41。
27 佐賀藩 大木喬任
(1832〜1899)
幕末・明治維新期の肥前佐賀藩士、政治家。通称は幡六、民平。
初代文部卿、元老院議長、枢密院議長、法相、文相などを歴任する。明治期の教育制度を確立した明治の六大教育家の一人。伯爵。
28 長州藩 井上馨
(1836〜1915)
幕末・明治維新期の長州藩士、政治家、実業家。桂太郎は娘婿。通称は聞多。身分の低い出身が多い幕末の志士の中では、比較的毛並みの良い中級武士であった。
藩校明倫館に入学した後、江戸で岩屋玄蔵や江川英龍に師事して蘭学を学んだ。1890年(明治23)渋沢栄一と大倉喜八郎の両氏を説いて、 鹿鳴館との関連性のあるホテルとして有限会社帝国ホテルを設立させる。侯爵。
29 長州藩 品川弥二郎
(1843〜1900)
幕末・明治維新期の長州藩士、政治家。号は扇洲。別称に橋本八郎、松本清熊などがある。
1857年(安政5)松下村塾に入門し吉田松陰から教えを受けるが、1859年(安政7)に「安政の大獄」で松陰が刑死すると、高杉晋作らと行動を共にして「尊王攘夷運動」に奔走。
明治3年(1870)渡欧し、農政や協同組合の研究をする。帰国後、獨逸学協会学校(現:獨協学園)や旧制京華中学校(現:京華学園)を創立し、また信用組合や産業組合の設立にも貢献している。信用協同組合を設立する。子爵。
30 長州藩 伊藤博文
(1841〜1909)
幕末・明治維新期の長州藩士、政治家。号は「春畝」、「滄浪閣主人」。維新前は伊藤俊輔と名乗っていた。
1885年(明治18)初代内閣総理大臣となる。その後、第5代、第7代、第10代内閣総理大臣を歴任。
1889年(明治22)発布の大日本帝国憲法制定の中心人物として活躍。アジア最初の立憲体制の生みの親であり、またその立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、現代に至るまで大変高い評価をされている。
1909年、ハルビンで朝鮮独立運動家の安重根によって暗殺(拳銃により射殺)された。享年69。公爵。
31 薩摩藩 村田新八
(1836〜1877)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、政治家。通称新八。
幼少の頃から西郷隆盛に指導を受け、その死の瞬間まで深く尊敬し続けた。
西郷隆盛の下で、会津若松城の戦に参戦する。岩倉使節団の一員として渡米し、帰国後、砲隊学校・章典学校の監督となる。
西南戦争では西郷の側を離れず、1977年(明治10)9月24日、鹿児島城山で西郷の自刃を見届け壮絶な戦死を遂げた。享年42。
西南戦争には、村田新八の息子(岩熊と二蔵)も参加し長男は田原坂で戦死、次男は政府軍の捕虜となり生き延びている。
【蛇足】現在も残る「田原坂」という歌の中で「馬手(右手)に血刀、弓手(左手)に手綱、馬上ゆたかに美少年」と歌われた美少年とは長男岩熊のことである。
32 薩摩藩 小松帯刀
(18358〜1870)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、政治家。維新の十傑のひとりである。官位は従四位玄蕃頭。
1861年(文久1)島津久光の側詰で側役勤、1862年家老として、討幕運動、大政奉還、薩長同盟に尽力するも、1870年(明治3)7月20日、若干35歳にして大阪で病没。
33 薩摩藩 大久保利通
(1830〜1878)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、政治家。通称は正助。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑のひとりでもある。位階勲等は贈従一位勲一等。
版籍奉還、廃藩置県など、明治政府の体制を確立する。 内務省を創設し、初代内務卿として地租改正、徴兵令などを実施し、実権を握る。
しかし、西郷隆盛の「征韓論」に対立し、1877年(明治10)西郷隆盛を擁する鹿児島士族の反乱「西南戦争」の鎮圧にあたり、竹馬の友である西郷を失った。その後、1878年(明治11)各地の不平士族数名に出勤途中を襲われ東京の紀尾井坂で暗殺された。享年47。
34 薩摩藩 西郷隆盛
(1827〜1877)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、政治家。通称は吉之介。木戸孝允、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑のひとりでもある。
明治元年(1968年)、高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会談し、 江戸無血開城を実現する。
1873年(明治6)朝鮮釜山の大日本公館をめぐって日朝間にトラブルが発生し、閣議で板垣退助は出兵論(征韓論)を主張したが、西郷は反対し、自ら使節となって朝鮮に渡り平和的交渉によって日朝間の国交の正常化を実現したい旨を論じた。閣議は西郷の要望をいれ朝鮮派遣使節に内定。しかし、大久保利通、伊藤博文らが組んで、天皇に閣議決定を裁可しないように求めて、西郷の朝鮮使節派遣を葬った。
この政変は、西郷が「征韓論」に敗れて辞職したとされているが、西郷は「征韓論」に反対し、平和的道義的交渉による日朝国交の正常化を求め、むしろ「遣韓論」として朝鮮使節を切望したのである。
政変に敗れた西郷は帰郷引退し子弟の訓育にあたった。しかし、1877年(明治10)私学校派士族が政府に挑発されて「西南戦争」を起こすと、心ならずも擁せられ、同年9月24日鹿児島城山で自刃した。
35 薩摩藩 西郷従道
(1843〜1902)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、陸軍および海軍軍人、政治家。西郷隆盛の弟。本名を隆興、通称は信吾。兄・隆盛を「大西郷」、弟・従道を「小西郷」と呼ぶ。
新政府では、文部卿、陸軍卿、農商務卿を歴任。第1次伊藤内閣では、海相に就任し、 海軍大将となる。海相として、海軍の整備、改革に尽力し、日清戦争でも活躍する。1898年(明治31)に海軍軍人初の元帥の称号を受ける。
内閣総理大臣候補に再三推されたが、兄・隆盛が逆賊の汚名を受けたことを理由に断り続けた。栄典は従一位大勲位功二級侯爵。
36 薩摩藩 別府晋介
(1847〜1877)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、軍人。名を景長、通称は晋介。従兄に仲が良かった桐野利秋(中村半次郎)がいる。
戊辰戦争(1868)で、分隊長の一人として白河城、会津若松城の戦に参戦する。 西郷隆盛が切腹したときに介錯を勤め、その後自決した。享年31。
37 薩摩藩 寺島宗則
(1832〜1893)
薩摩藩出身の江戸時代後期の幕臣、明治時代の政治家である。通称は寺島陶蔵。
1865年(慶応元)渡欧し、維新後は、外務卿として、樺太・千島交換条約、日朝修好条規の締結などに尽力する。伯爵。
38 薩摩藩 中村宗見
(1843〜1902)
別名、中村博愛。江戸時代末期・明治期の外交官。1865年(慶応1)トーマス・グラバーの持ち船オースタライエン号で英国へ向け密出国。英国、仏国に留学。のちにマルセイユ領事、デンマーク公使、元老院議官、勅選貴族院議員となる。
39 薩摩藩 川路利良
(1834〜1879)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、官吏。警察行政の確立者。
1868年(明治2)〜1869年(明治3)の戊辰戦争に従軍し、各地を転戦。大久保利通の腹心として、警察制度を創設する。 明治7年(1874)に創設された警視庁の初代総監となる。
40 薩摩藩 黒田清隆
(1840〜1900)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、政治家。
1863年(文久3)薩英戦争に参加。同年藩命により江戸の江川塾に入り砲術を学ぶ。1866年(慶応2)薩長連合の成立に尽力し、戊辰戦争には参謀として従軍。箱館五稜郭の攻撃を指揮した。
第2代内閣総理大臣。その後、枢密院顧問、逓信大臣、枢密院議長を歴任。
大久保利通没後の薩摩閥の中心人物であったが、長州閥に対し常に劣勢であった。1878年(明治11)には酒乱のため病妻を殺害したとの風評がたった。1900年(明治33)8月23日脳出血のため死去。伯爵。
41 薩摩藩 鮫島誠蔵
(1845〜1880)
明治時代の外交官。本名は鮫島尚信。通称は誠蔵。鮫島武之助の兄。
1861年(文久元)蘭医研究生として長崎に学び、この時、前島密との知己をえている。1865年(慶応元)薩摩藩の留学生としてイギリスに留学しロンドン大学法文学部に約1年間学ぶ。
1868年(明治元)日本に帰国し、判事を経て外交官としてフランス、ベルギー等で公使として活動。1880年(明治13)在仏公使在任中にパリで持病の肺病に倒れ、35歳の若さで病没。
42 薩摩藩 五代友厚
(1836〜1885)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、実業家。幼名は徳助。通称才助。
明治元年(1868)外国事務局判事として大阪在勤し、翌年には現在の大阪証券取引所や・大阪商工会議所を設立し、初代会頭となる。「東の渋沢・西の五代」と称され、大阪経済界の重鎮の一人。
43 佐賀藩 香月経五郎
(1849〜1874)
江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。佐賀の乱の首謀者の一人。
藩校弘道館で勉学に励み、英学校致遠館に進んで頭角を現した。明治維新後は東京に遊学、山中一郎と共に「藤門の双璧」と謳われた。明治3年(1870年)には文部省に選抜されアメリカに留学。さらに旧藩主鍋島直大と共にオックスフォード大学で経済学を学んでいる。帰国してからは、征韓論に伴う明治6年政変により江藤新平が職を辞したためこれに同行し佐賀県中属に任官。 佐賀の乱では、敗れて佐賀を脱出する江藤に同行し土佐にて捕えられ乱後の裁判にて斬首。享年26。
44 薩摩藩 吉井友実
(1828〜1891)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、官僚。通称を仁左衛門、中介、のち幸輔。
西郷隆盛・大久保らと始めとする精忠組の中心人物として藩政をリードし、尊皇討幕運動を推進した。戊辰戦争の緒戦である鳥羽・伏見の戦いでは、自ら兵を率いて旧幕府軍を撃退するなど多大な功績をあげた。
新政府において司法、民部、宮内各省の仕事に尽力する。1891年(明治24)64歳で死去。伯爵。
45 薩摩藩 森有礼
(1847〜1889)
幕末・明治維新期の薩摩藩士、外交官、政治家。通称は助五郎、金之丞。明治時代の六大教育家の一人である。
英国や米国で教育制度の研究に取り組んだ後、第一次伊藤博文内閣において、初代文部大臣として学校制度を確立する。義務教育、帝国大学を頂点とした学校システムなどを打ち出すと共に、修学旅行や運動会などの行事も制定。
一橋大学創設者、明六社会長、東京学士会院初代会員。子爵。
46 佐賀藩 石橋重朝
(1845-1919)
佐賀藩士石橋朝郁の二男。1868年(明治元)佐賀藩弘道館の寄宿斎長、のち江戸に出て開成学校に学ぶ。1870年(明治3)米国留学。帰国して佐賀藩権大属。のちに分家して一家を創立する。
1872年(明治5)佐賀藩と英国商社との高島炭鉱共同事業の起業に尽力。1873年(明治6)工部省出仕。1885年(明治18)初代内閣統計局長に就任。1919年(大正8)74歳にて死去。正四位勲五等。
著書に「勧商ノ針路ヲ一転スルノ説」がある。
47 紀伊藩 陸奥宗光
(1844〜1897)
幕末・明治維新期の紀伊和歌山藩士。外交官。政治家。
坂本竜馬の海援隊に加わって活躍し、明治維新後は、 駐米全権公使、山県有朋内閣の農商務大臣,第2次伊藤博文内閣の外務大臣などを歴任。 日清戦争直前の1894年には、イギリスとの間で治外法権の撤廃を勝ち取る。伯爵。